大阪の小さな町で起きた殺人事件。犯人は特定できず19年の歳月が過ぎる。当時小学生だった被害者の息子である影のある少年と、容疑者の娘である美しい少女は仲の良い友人だった。高度経済成長期からバブル期までの時事に沿いながら、生き抜くために影となり日向となり人生を支え合って来た男女の物語。壮絶なまでに貪欲に幸せを追い求めた女と、その欲望のために影として生きることを選んだ男。その関係は友情か、愛情か。東野圭吾の代表作である長編。
エンターテイメント作家、という印象の強い東野氏の作品の中でも、本作は熱が入ってるな、と感じさせる長編でした。ちょうどバブル前の高度経済成長期を時代背景に、アンダーワールドで生き抜いてきた2人の男女が主人公なのですが、この作品の面白いところは主人公達を1人称にした箇所が全くなく、彼らに関わった大勢の人たちに視点を合わせていくことによって2人の人物像に迫ろうとしたところです。仕掛けが好きな東野氏らしい作品ですね。
最期まで主人公(と果たして言えるのかどうか?)の2人の人物像は実は明確にはなりません。なぜ2人は全く違う環境にいながらも常に連絡を取り合い、全てに連携して人生を歩んできたのか。ちょうど蝶番のようにそれぞれがお互いに必要なもの(情報、資金)を補いあって来たのか。正直彼らの気持ちは分かりません。そんなに支えあってきたはずの2人をつないでいたものは愛情だったのか、それともそうではなかったのか。最期のシーンも判断が難しい。
けれど2人の人生は決して幸福ではなかった。それはそれぞれが別々の場面で自分の人生について語ることで表現されています。男は
『いつも白夜の中を歩いて来たようだった』 と言い、女は
『自分は太陽に照らされなければ輝くことすらできない月のようなものだ』 と自分を表現します。太陽の下を歩んで行くことができなかった2人。この2人に共通しているものは何か。
それは
『幸福な子ども時代の欠如』 だと私は思うのです。本来愛され庇護されるべきである子ども時代に、その恩恵を充分受けることができなった。すると人間はこうなってしまうのかもしれません。
クリスマスやお正月が楽しいのも、子どもの頃楽しかった思い出があるからではないでしょうか。
親の責務は子どもに幸福な子ども時代を与えることではないかとつくづく思わせる作品です。
評価:




(5つ満点)
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