イス取りゲームのイスが足りなくなっている現代に、それでもイスを取り続けろと言われる僕達。そんな社会は間違っていないか?子ども達に向けて派遣村村長が静かな情熱で現代の貧困とその自己責任論について語る。重松清との対談も巻末に収録。
(湯浅誠)1969年東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。社会運動家、活動家。自立生活サポートセンターもやい事務局長、反貧困ネットワーク事務局長、元内閣府参与・緊急雇用対策本部貧困・困窮者支援チーム事務局長。主な著書に 『反貧困』 など。
イス取りゲームのイスが足りない現代で、そのイスに座れない人を 『努力が足りない』 (自己責任論) で済ませるのは間違っている。という一貫したテーマは分かりやすくとてもよいと思う。
しかし正直なところ、読者をYAにしているにも関わらずその語りかけが中途半端に感じるので、YAにはもちろん私達大人にとっても輪郭は分かるんだけど本質が分かりにくいというか、中途半端な印象の内容になってしまっている。富の再分配(税率)や様々な行政サービス(セーフティネット)の充実化について、もっと突っ込んで語っても良かったのでは。同じ話の繰り返しにしか聞こえない部分も多く、もう少しまとめてもらえればと思ってしまった。
自らを 『活動家』 という湯浅氏、活動家が胡散臭い目で見られない社会を目指したいと言う。誰もがもっと社会を良くしよう、互いに意見を言い合い向上することを目指そうとする社会。氏のその通りだ、だから現に小中学校では今も 『道徳』 なる授業が存在し 『人の意見を聞く』 『自分の意見を述べる』 『共に話し合う』 訓練を小学生から行っている。それは私の子ども時代からずーっと変わらない。それにも関わらず、社会はなぜそうならないか。
1つはやり方がまずいということ。道徳のやり方がおかしいのだろうか?30~40年、いやきっと戦後50年も道徳の授業は行われて来ているはず。では何が問題か?もう1つは元々社会とは、そういうものだということ。意見を出せる人ばかりじゃない、意見を出したい人ばかりじゃないということ。それならばどうするべきか。
活動って難しいし大変。湯浅氏に貧困ビジネスの烙印を押され自らがホームレスになってしまったという人をTVで見た。彼から見たら湯浅氏が自分を追い込んだ悪者ということになる。でも貧者を食い物にする貧困ビジネスは確かに存在する、社会の底辺にいる者同士でなぜ搾取しあうのかと、湯浅氏の嘆きが聞こえるようだ。奥田英朗 『オリンピックの身代金』 でも主人公が全く同じことを嘆いていた。
では必要なものは活動か、いや社会の改革>革命か?それならばその理論はかつての連合赤軍と同じではないだろうか。
現代という法治社会に生きる私達に必要なこととは何か。社会を知りその仕組みを知り、それから恩恵を受けられない人をなくすこと。すべての人が社会に等しく幸福に生きる道を見つけること。そのために自分は何ができるか。
まずは現実を、現状を知ること、ではないだろうか。知ることから考えることが始まり、考えることから行動が始まる。と自分自身を、同じ社会に暮らす他の人々を、信じたいと思った。湯浅氏には今度も社会構造について掘り下げた内容の本を、またYA向けに分かり易く書いて欲しいです、それなら私も読めるし。
評価:(5つ満点)
オリンピックの身代金*奥田英朗
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程