私はそれでもいいじゃないかと思うのです。小説はフィクションだからです。でもそれと同時に専門家の場合は読むに耐えない、という思いを感じるだろうというのもうなづけるのです。私は決してコンピュータに詳しいわけではないのですが、ある小説で24時間ホストコンピュータの監視を受けているクライアント機を操作して、監視のデータを改ざんする、というくだりを読んだ時そこで止めてしまいました。
監視されている側が監視する側をコントロールできるわけはありません。改ざんしている最中も監視されデータは残されているからです。素人の私ですらそんなことは分かります。やはりそこでそれ以上読む気力がなくなってしまった。遺伝子学者が瀬名氏の小説に対して言いたいことはこういうことかもしれない、と思いました。
前置きがやたら長くなりましたが、この小説には<私>という作家が出てきます。瀬名氏同様文学界で有り得ない小説を書いたと叩かれ、落ち込んでいる作家です。彼はふと子どもの頃出会った林の中の博物館のことを思い出し、小説としてまとめてみようと思い立ちます。そこから始まるのですが…。
以前Blogに記事として上げたように、文中の博物館学に関する記述は正確で、瀬名氏が学芸員の資格を取ったか博物館学に詳しい人にきちんと監修を頼んだか、いずれかであることは間違いがないです。ヴァンダーカマーから遺物の時代へシンクロさせようとする<博物館>の存在意義も明確です。
しかし。
<博物館>を巡る主人公亨の物語は良いのですが、突然切り替わる場面、19世紀考古学者エリオットの時代であったり、現代の作家である<私>であったり、この切り替わり方がどうにもついて行けない。こうした複数の主人公を切替える小説は確かに難しいとは思うけれども、切り方が唐突過ぎて場景が浮かばない。その他にも何度も読み返さなければならない箇所がありすぎました。19世紀エジプトの遺跡発掘のシーンも彫像の並び方やエジプトの砂漠の雰囲気が、残念ながら文章からは伝わって来なかった。
そして最後に来る物語全体の大仕掛け。ファンの方には申し訳ないけれどもこれは狙いすぎで失敗では?とまで思ってしまいました。この仕掛けがなければもっと好感度が高い小説だったのに。博物館学、そしてエリオットはカイロ博物館の創設者で演劇 【アイーダ】 の作者という設定なのです。
行きつけのオンライン書店bk1でも書評がまっぷたつに分かれています。評価が難しい小説ですが、博物館学をテーマにした小説としては興味深い作品でした。