
近未来と思われるとある国。その国では原因不明の現象が30年に一度必ず起こっていた。それまで普通に生活の営みを続けていた町の人々が、ある日忽然と姿を消してしまうのだ。人々が 『失われる』 原因は誰にも分からず、予知もできない。ただ残された町の痕跡を消すことだけがその 『消失』 の広がりを抑えるのだと信じられている。ある日突然愛する人を失い、喪失感を抱えそれでも日々続く 『日常』 を生きて行かねばならない残された人々の悲哀、憤り、そして願いとは。異世界とも言える近未来を舞台に描いた新しいSF小説。『小説すばる』 掲載に加筆修正し単行本化。

(←辛口。次回作に期待!!!)まず、群像劇は難しい、ということは一つ挙げられると思う。さすがの脅威の新人、三崎氏にも群像劇はまだ早すぎたのかもしれない。でもそれよりも、せっかく思いついた 『町単位の消滅』 という不可思議現象を彼自身がどう捉えていたのか。最初私は 『消滅』 自体がウィルスのようなもので、その活動が30年サイクルで行われるのだと思っていました。
がっ途中から物語の様相が変わってきます。
『町』 にはそれ自身の自我のような 『意識』 がある。町が消滅するのは町の意志による、という考え方。その意志に抗い、町にいながらも消滅を免れた人を 『消滅耐性』 と呼び、管理局は徹底してその原因を探り、次の消滅の予知に利用しようとする。うーんやっぱり耐性ならウィルスじゃないの?町が意識を持つ?その時点でちょっと…うーん。
ネタバレ寸前ですが、町の意志によって 『消滅する人』 と 『その時点で町外におり消滅を免れる人』 が分けられるそうです。その意味は一体何?では消滅耐性を持った人の位置付けはどうなるの?町にとってその人は敵になるの?ウィルスならばウィルスとして最後まで扱うべきではなかったのでしょうか。途中から 『町』 には意識がある、人の悲しみに反応してその消滅範囲を広げる、などどこからどこまでが(物語上の)真実なのか…。
もちろんそれが分からないから管理局があり、かつて町の犠牲になった人々がそこで奮闘する訳ですが、途中あまりにも色々な事象が絡みすぎて、ややこしくなりすぎ。ちなみに 『居留地』 の辺りの記述、桂子と脇坂の結婚の辺りの記述は必要なのか?とまで思ってしまった。
最後までひびきちゃんとひびきくんの2人のお母さんの本名が出てこないのが、何だか仲間外れみたいで可哀想だった。どうして彼女達の名前だけ出てこなかったのだろう?というか私見落としているのか?だったりして。
高い評価を得ている反面、逆に 『となり町戦争』 の方が小説としては完成されていたという評価もあるそうで、私も実は同意見です。 『町』 の描き方が不十分だと私は感じました。遺された人々が失われた人々の遺志を継ぎ未来を築いて行く、というテーマはよく分かりますが、物語の核心が中途半端ではそのテーマは伝わりにくい。
せっかくすごーくいい舞台設定なのに!残念です。
ただ今 読破中
進まない読書
リンドグレーンいいですよね、
となり町~
新しい作家
映画化
2月に