寺山修司とは何者か?
青森県立美術館では昨年に続き県民参加型演劇を開催します。県民参加型演劇とは、県民が出演者となるなど、青森県立美術館が県民と共に作り上げていく演劇です。今年度は30歳までの寺山修司に焦点を当て 『新しい寺山修司を発見する』 ことをテーマに、一輪車やダンスなど様々なパフォーマンスを組み合わせた新しい形の舞台を創造します。『戯曲 寺山修司論』 の一部は 『寺山修司全詩歌句』 (思潮社) より、引用しています。(青森県立美術館HPより抜粋)
なかなか趣向を凝らした演出で、前衛演出家 寺山修司を語ろうという意気込みを感じた作品でした。何と言っても
【あの】寺山修司を
【戯曲で】論じようというのですから、これ位はやらないとね。
脚本と演出に感動し、市民(プロ・アマ問わずオーディションによる出演者決定)参加型ということでもまた感動し、観てきました。
寺山修司という人を語るには、一言どころか二言三言、それ以上、言葉を尽くしても語りきれないのかもしれません。だから諦める、というのではなく自分の言葉で彼を語ろう、という脚本家の気持ちが伝わってくる、素晴らしい内容でした。
1幕。寺山修司を卒論テーマに選んだ女子大生の部屋に、次々と友達や大家さんや変な人達?が集まってくる。このシーンの意図は?怒濤のように押し寄せる人や情報の中で生きている私達、それは寺山自身も同じだったのではないか。何かの価値観を押しつけられながらも、
『それはおかしい』 『それはこうあるべきだ』 と言う周囲の声に惑わされることなく生きた、彼の生き様。それを女子大生は求め、彼の原風景のある三沢市へと向かうのです。
2幕。彼自身の出生の経緯を基に、虚構をふんだんに盛り込んだ寺山作の長編叙事詩
『李庚順』 の朗読シーン。朗読する役者達、その前で踊るダンサー集団、バックの大スクリーンに映し出される詩の一部。必死で耳で朗読を聞き、ダンスを眼で観て、非常に疲れましたがとても良かったです。こうして寺山修司も必死に耳で様々な音を拾い、眼で様々な物をできる限り見ようとして来たのかもしれない、と思いました。
全体として、寺山修司が固執した(と言われている)母親への想いを中心に描かれた作品です。母さんはなぜ自分を置いて働きに行ってしまったのか。なぜ自分のそばにいてくれないのか。父さんがいないからだ、父さんを奪っていった戦争が憎い。
激しい愛憎の中で、最後のシーン。中学生の頃の寺山と、大学生(大人?)になってからの寺山が、同じように家から出かけるシーンで
『母さん、仕事は?』
『ずっと、いるよ。』
母さんというものは、ずっとそばにいて欲しいもの。ずっと子どものそばにいなくてはいけないもの。それを追い求め続けた寺山の、気持ちが伝わってくる舞台でした。
ところどころ涙ぐみましたが、一番泣けたのは
『僕の誕生日は戸籍上では実際と10日ほどずれている。それを母に問い質すと「おまえは汽車の中で生まれたからね」と言う。実際にはあり得ない話なのだが、僕は大きくなるまでそれを信じていた。』
というシーン。寺山の詩
『もしも住む家がなかったら』 を思いだし、泣きそうになりました。
来年も今後も、ずっとこうした県民参加型の県立美術館主導の演劇が開催されることを願っています。
評価:




(5つ満点)
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