なぜ言葉で表現することを選んだのか。高橋源一郎、川上弘美ら8人の作家達と穂村弘が繰り広げる、言葉を書く人間同士の 『書くこと』 についての対談集。
(穂村弘)1962年北海道札幌市生まれ。上智大学卒業。歌人、翻訳家、エッセイスト。『短歌の友人』 で伊藤整文学賞、『楽しい一日』 で短歌研究賞を受賞。主な著書に 『シンジケート』 『短歌という爆弾』 『もうおうちへかえりましょう』 『本当はちがうんだ日記』 など。
(収録作品)明治から遠く離れて(高橋源一郎 述)/生き延びるために生きているわけではない(長嶋有 述)/不確かな“日常”、立ち向かう“言葉”(中島たい子 述)/歌のコトバ(一青窈 述)/うたと人間(竹西寛子 述)/言葉の渦巻きが生む芸術(山崎ナオコーラ 述)/「酸欠」世界から発する言葉(川上弘美 述)/言葉の敗戦処理とは(高橋源一郎 述)
高橋源一郎との対談、文学は直列から並列に、という話からいきなり難しい語彙が続出…。 『慰藉(いしゃ、なぐさめ)』 『リリカル(抒情的な)』 とか普段使わない言葉は辞書引いたり中学校の先生に聞いてみたりして、そういう意味だったのか。この年になっても知らない語が読んでいる本に出てきてしまうことにちょっとショック+新鮮さを味わってしまいました。でもやっぱりなんでわざわざ 『慰藉』 って難しい言葉を使うの?(やっぱり分かってない)
確かに文学は既存のものを壊すことから次の世代を生み出してきたのかもしれません。その流れが近代文学、つまり大江とか三島あたりで停まってしまい、そこから次の世代はみんな並列に出てきた。つまり前世代の文学を読み尽くしそれらを踏襲もしくは破壊し先へ進もう、という世代でなく、全く関係ないところから出てきた新しい世代。高橋氏の説ではホラーとかマンガとかを読んできた吉本ばなながその代表だそうです、なるほどそうなのか。と文学史論争のあたりはやや退屈…(苦笑)。
中島たいこは私も好きです。 『漢方小説』 オススメですよ。山崎ナオコーラも何冊か読みました、山崎さんがホムラさんと同じ文芸誌に載ったことで 『私もスゴイ所に来たな』 と思いましたというくだり、山崎さんなかなか可愛らしい素直な人ですね。一青窈の詞(詩)を改めて文字で見ると確かに面白いですね、変な日本語ですよ。読み終わってすぐ一青窈のCDを探しだして聴いてしまいました。川上弘美はやっぱり変な人でしたね、対談でも何言ってんだかよく分からない(笑)。
そしてやっぱりすごいのは、ホムラさんが対談相手ごとに目まぐるしく会話のリズムもカラーも変えられるところでした。年齢も性差も超えて誰とでも語り合える、さすが現代を代表する歌人 ホムラさんですね。
漢方小説*中島たい子
Bestyo*一青窈