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スクラップブック1:野帳

img20060420.jpg想い出の野帳たち
杉浦さんの 『スクラップ帖のつくりかた』 を見ていてまず思い出したのが学生時代に使っていた 『野帳(やちょう)』 です。
私達考古学の学生はこのメモ帳を 『野帳』 と読んでいました。要するにフィールドノートです。

私が学生時代に使っていた野帳が6冊残っていました。相変わらず表紙にシール貼ってるし(笑)。

実際に発掘に持って行って使った野帳の他に、博物館実習旅行版や友達との奈良旅行の旅日記、卒論用のメモもあります。しかし卒論用のメモなど途中で終わってる…結局メモ作る時間も惜しくて卒論を直接書いていたのがバレバレだぁ(笑)。と懐かしく思い出したりします。

本当に考古学やっていたのか?と良く言われますが(ヤセなもので)、私が考古学徒であったことの証明はこの野帳と卒論だけですかね。

学生当時は発掘での力仕事も結構こなし、エンピ投げ(エンピと呼ばれる大型シャベルで土を掘りその土を盛り土の山へ投げる作業、かなりの重労働)も精査(せいさ、発掘断面をきれいにすること)や鋤簾(ジョレン、同じく地表面をキレイにする道具)もなかなかの腕だと大学院の先輩にも褒められたこともありますわ(自慢?)。

もちろんネコ(一輪荷車)も土を山盛りにして押せたし、雪深い新潟の2月に発掘をしたこともあるし、結構昔は体力勝負だったというのにずいぶんガタが来ちゃったもんだなぁ。

img20060423.jpgと話を戻します。

主に発掘での野帳は発掘における経過記録です。それには様々なものがあり、右の図では数点ある各遺構(いこう、遺跡内のブロックに分けられるもの)の大きさや様子が記してあります。 『4m50cm、ようがん(溶岩)、レキ(普通の岩石)、赤色部分あり』 などと記載あります。

img20060423_1.jpg 私の 『今まで行ったことがある場所で自慢できる』 場所の1つに八丈小島があります。その記録もあり。

八丈小島は八丈島のすぐそばにある小さな島で、昭和44年に全島民離島命令が出るまで小さな部落が2つありました。私達が本島である八丈島で発掘中、大学院生の精鋭部隊が午前中のみ八丈小島で縄文遺跡の発掘に当たっていたので午後、見学に行ったのです。

なぜ午前のみか、というと八丈小島は日陰が全くないため、暑くなる午後にはとても作業ができないのです。そのため院生達は朝は6時頃本島から漁船で小島へ渡り、午前中一杯発掘して午後はお休みまたは本島のお手伝いをしてくれました。

何と言っても精鋭部隊の男子学生の先輩方でしたから、午後まで作業を続けることもしばしばでした。本当に考古学の男子学生の体力には驚かされます…。

以前離島の際残してきたヤギが自然繁殖してしまって大変なことになっている、という記事が何回かメディアに出たことでご存知の方も多いかと思いますが、小島は確かに生活環境としてはかなり厳しいです。井戸というほどの井戸もなく、廃屋となった部落の各家の庭には、石で作った雨水を溜めるウス状のお皿がありました。部落の一番上には小さな学校があり、教室が2つ。離島を余儀なくされた島の人々の無念を書いた詩が書かれていました。

部落の様子や神社と祭壇の様子がメモしてあります。東京都委託の今回の小島の発掘は久しぶりだそうで、かなりの収穫があったそうです。

img20060423_2.jpgさすがに4年にもなると野帳もちょっと野帳らしいというか(笑)、 考古学っぽい記録になってます。最後に行った発掘は初めて業者さんと一緒の行政発掘で、バブルのなごりか大規模な試掘でいっぱい飲みにも連れて行ってもらったし、何より温泉地だったので毎晩の温泉が極楽でした(笑)。温泉地なので射的にハマッたハマッた、毎晩射的をしていたような…。

じゃなくてこの辺の野帳の内容は少しマトモですね。試掘坑(テストピット)から出土したものとその時代、紋様の様子などが書いてあります。

img20060423_3.jpg更に遺物を取り上げる(出土位置の記録を取りその後モノを1つずつ取り上げる)際の記録。今見ても専門用語をもう忘れてしまって分からないぞ(汗)。数字は地表面からの深さ(位置)を示しています。このメモを元に後で取った記録図に深さの数値を入れていくという…地道な作業。

今は縦横深さ、3次元の位置を一度に記録できる装置(トータルステーション)を使っているため、このような作業はもうしていないのかもしれません。
私達が卒業の頃大学でもトータルステーションを購入しました。一度だけ使ったかな。

でもいわゆる平板を使いメジャーで距離を測り、鉛筆と三角スケール(物差し)で実測する、という考古学の基礎中の基礎を体験できた私は幸せだったと今は思います。
どんな学問でも基本はやはり知っておくことが必要だからです。
一つ一つ地道に遺物を取り上げていく作業。そこから多くの学説が生まれてきたのです。
その一端を担えただけでも幸せでした。

img20060423_4.jpgしかし…もちろんここが私。軍手などの消耗品は大抵支給されますが、そで口が赤くてカワイイ!というどうでもよいことまで書いてある(笑)。

img20060423_5.jpg更に!非常に細かい石器片が多くでた試掘坑が1つあり、そこだけを非常に深く掘り進んだため深さ2m以上になってしまったので、いよいよ遺物を取り上げる際に穴の中へ降りるのにユンボ(パワーショベル)の手?に乗ったんですよ。

この経験は未だにこの1回きり。私の嬉しさが伝わってくるでしょ(笑)。

ユンボの手の部分には粘土質の土がたくさん付いてて滑るし、かなり怖かったです。もちろん上がる際もユンボに来てもらわないと出られないし。穴にハシゴを立てかけると穴の側面が崩れるのでできないのです、側面の土層の記録も取るためです。

img20060423_6.jpgそれがこの側面、土層チェックの記録。粘土が多く含まれる層、礫(大きめの石)が多く含まれる層、など関東平野ではほぼ土層の内容で年代が既に分かることになっています。数回あった富士山の噴火も大きな目安の1つです。噴火後の火山灰の堆積でいつの時代か分かるようになっています。

そのため1層、3層、4層など既に明らかになっている層にはその名称を付けていきます。この土層の見分けが結局…卒業まで1人ではできなかった。難しいんですよ。この時も院生にチェックしてもらって私が記録しています。

こんな感じで毎回発掘してました。懐かしいですね。この時はいつも発掘ではずっと一緒だった同期のNRちゃんもKMちゃんも一緒には来られなくて、初めて1人で行った発掘で最後の発掘になりました。私は企業への就職が決まっており、2人は大学院入試だったかで来られなかったような気がします。
途中から1つ上の先輩が来てくれて、一緒の部屋で寝泊りして色々おしゃべりしたのも懐かしいな。

しかし…いつも思うけど学生時代ってどうしてもっと勉強する機会があったのにしなかったんだろう?他にすることがいっぱいあったからだって?そうでしょうねぇ(笑)。

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1972/02/16
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